四柱推命の起源は、古代中国にあります。
四柱推命は、五行(木・火・土・金・水の五気)がどのように循環するかで命運を見極める推命術です。 「五行」という語句は、古くは春秋時代(紀元前7世紀頃)に成立した歴史書『書経』(しょきょう)のなかに確認できます。
その後、前漢時代(紀元前2世紀頃)に董仲舒(とうちゅうじょ)が記した『春秋繁露』(しゅんじゅうはんろ)にも五行説に関連する記述が確認できます。
また、同じく前漢時代(紀元前2世紀頃)に劉安(りゅうあん)が編纂させた『淮南子』(えなんじ)にも五行説に関連する記述が確認できます。
後漢時代(1世紀頃)に王充(おうじゅう)が記した『論衡』(ろんこう)では、人の命(めい)は父母の交合の時点ですでに決まっているとしています。
また、天から受けた気によって人の形ができあがるとしています。 これは、人の命運の吉凶は自然の一部であり、この世に誕生した時点ですでに決まっているという考え方です。
こうした思想は、後の推命術に多大な影響を与えています。 四柱推命の成立はもう少しのちの時代になりますが、遅くとも紀元前後には基本的な考え方が成立していたことが伺えます。
中国において四柱推命が成立したのは宋の時代です。 宋の時代(12世紀)に徐子平(じょしへい)が記述したものが、四柱推命の最古の書とされます。
徐子平は、生年月日をもとにして日干支を中心にする今日の四柱推命の基礎を確立しました。 四柱推命の創始者を特定することは困難ですが、徐子平(じょしへい)を現代に通ずる四柱推命の始祖とみなすことはできるかもしれません。
中国において四柱推命が発展したのは、宋代の終わりから明代のはじめにかけてです。 宋代の終わり(13世紀)には、徐大升(じょだいしょう)が『淵海子平』(えんかいしへい)という書を記しました。
また、明代のはじめ(14世紀)には、劉伯温(りゅうはくおん)が『滴天髄』(てきてんずい)という書を記しました。 この『滴天髄』は、現代においても四柱推命の名著とされています。
尚、四柱推命という名称は、日本に渡ってから呼ばれるようになったものです。 英語圏でも Four Pillars of Destiny と呼ばれます。 中国・香港・台湾では子平(ジピン)や八字(パーツー)などと呼ばれます。 子平という名称は、もちろん四柱推命の始祖である徐子平(じょしへい)の名前に由来します。
日本では、江戸時代の正徳年間(1711~1716年)に『淵海子平』が伝来しました。 当初は翻訳できる人がいませんでしたが、桜田虎門(さくらだこもん)が翻訳して文政元年(1818年)に『推命学』と題して出版されました。
桜田虎門が翻訳した『推命学』は、日本で最初に出版された四柱推命の書でした。 しかし、推命学の専門家ではなかったこともあり、翻訳が不正確であったり、原典から省略された部分もあったようです。
桜田虎門を日本における四柱推命の祖とみなすこともありますが、日本において四柱推命が広まるにはもう少し時間が必要でした。
日本における四柱推命の発展には、昭和初期に活躍した運命学研究の大家である安部泰山(あべたいざん)の功績が挙げられるでしょう。 四柱推命の根幹を押さえ、体系的に解説した書を刊行して後に続く世代に多大な影響を与えました。
泰山流の四柱推命は、地支に天干の五気が蔵されていると解釈して蔵干を重視する手法です。 現在の日本の四柱推命は、多かれ少なかれ泰山流の影響を受けていると言えそうです。